成分としての感性の問題

良いデザインと言うのは常に、目的を達成すべく、正しく設計されたもののこと。
1-1を読むとそのことがわかってもらえると思う。

では具体的に目的を達成するために必要なものはなんだろう?
「色や形や配置に美的な工夫をすること」だって二次的とはいえ、それこそ目的を達成するためには大事な行為なのだとしたら、
かっこいいとか、美しいとかいう美的な要素は?重要ではない?

デザインは設計なのだから、設計の対象と目的をまず明確にしないといけない。
伝えるべき情報は何か、誘導すべきアクションは何か。それを明確にすることが大前提。
(ちなみにこれはデザイナーだけでなくその仕事に関わる人全てが共通して認識しておくべき前提。
これが共有されない仕事は揉める。大概、揉めて着地点を見失う。)
それを受け取って、デザイナーは情報と価値を取捨選択する。そして視覚化する。
視覚化されたものが、『出来上がったデザイン自体(表層)』となる。
最終的にはその『表層』がデザイナーの仕事として見えてくることは当然だ。
わかりやすいデザイナーの役割として
「あとはデザイナーさんのセンスに任せますよ。いやーかっこいい感じでひとつよろしくお願いしますよ。」
と言う感じで最終的な表層部分に関しては提案をまかされることは確かに多い。

そして、その『表層』に現れる、美しさやかっこよさが、他人に与える『感動性』は、
目的を達成するための大事なひとつの要素としても軽視は出来ない。
デザインを構成する成分

他の2つの要素に比べて、この『感動性』部分、いわゆる「センスの良さ」は
少し前まではまるで先天的な才能の賜物のように思われている節があって、
それは案外今でもそう思って、それゆえコンプレックスに思っている人は多いような気がする。
だけどそれも、本当はちょっと違う。

美的な才能を支配する先天的な才能というものは、実は、ない。
だけれども確かに、世の中には素敵なセンスの持ち主とそうでない人はいる。絵のうまい下手があるのと同じように。
では、先天的な才能の問題でないのならどうして違うのだろうか。
それは、単純に脳の機能の連携力の問題。視覚的なものを処理する脳のルーティンの連携の問題。
生まれた時から訓練抜きで、その種の脳の機能の連携が出来ている人もいる。そう言う意味では生まれつきセンスに優れた人はいる。
だけどそうでない人が一生その機能を持てないかと言ったらそれは違う。

たとえば、子供の頃に文脈を整理する能力を作文で養わされたように、これは訓練で伸ばすことが出来る。
とにかく、見て観察して分析すること。
感動をもたらす視覚効果があるもの、それは絵でもいいし、写真でもいいし、デザインでもいい、映画だっていい。
そういうものを漫然と見るのではなく、観察して分析すること。どうして美しいのか考えること。何度も。
そうやって、見たものを、手を動かして真似すること。それで脳の機能を伸ばすことは出来る。

ただ、その伸びが大きい人と小さい人、遅い人と早い人は、いる。これは作文が得意な人と苦手な人がいるのと同じ。
その理由は、人間の情緒にも関連があるようでまだ正確にはわからない。

でも感性は、生まれつきじゃない。髪の色や眼の色のように、感性の善し悪しをを司る生まれつきの絶対のDNAがあるわけじゃない。
感性は単なる脳の連携機能。だから、自分の意識次第で伸ばすことが出来る。

デザインを成り立たせているもの