村上春樹の気味の悪さ 1Q84 Book3
いいお天気が続きますね。
土日のタイフェス@代々木公園は気が狂う程の人の多さでした。
で、本日はこちらの話題。
・・・今思ったけど、このタイトル、まさかここ炎上したりしないだろうね?(心配性w)
以下、ネガティブ風味注意。村上ファンの方はお怒りになりませんよう。
えーとね、わたしがいつもこの方の作品を読んで思うのは、「気味が悪い」なんだよ。
それはあえていうならおそらく悪い意味だけでもないんだけど。
すごいなんだろう、「違和」とか「異形」を覚えるっていうのか。
ほかにあまり、これほどの気味の悪さを覚える作家は思い当たらない。
いや、いろいろ優れているとは思うしね。
文章とか美しいし、読みやすいし、物語も悪くはないんだよ。
本が売れない昨今、なんでこれがそんなに売れるのかはよくわからないけど、
まあ、面白く(・・面白く?)読めるよ。お話は綺麗に収束するしね。
シチュエーションや、展開に文句がある訳ではないんだよ。
1Q84は1.2巻はあまり気味が悪いと思わなかったのだけど、
3巻はなんかひときわキツかった。
3巻は青豆さんはほぼほぼ動きはない訳だし、
天吾くんに(ていうか村上作品の男性主人公に)アグレッシブさを
求めるのはそもそも間違ってる訳だし、
動きはあまりないんだけど、だから内省的な分、なおさらなのか、
青豆さんも天吾君も終止気味が悪かった。
シチュエーションや、展開や、物語や、
あるいはセクシャルな要素や宗教的な要素そのものが
気味が悪い訳ではないのだとするとやはり、村上氏の描く文章の描きだす人物像が
私のなにかにすごく触れて、それが酷く気味が悪いんだと思う。
エキセントリックな女性像や、穏やかで繊細な男性像がイヤな訳でもない。
そもそもエキセントリックな女性キャラとか大好物ですし。
なのに、村上作品に出てくる人物って、結局読み終わって最後、
「気味の悪い人」だなってなるんだよ。私の場合。主人公がね。
例えばタマルや牛河や、リーダーなんかはちっとも気味が悪いと思わない。
ふかえりはほぼ人間じゃないから気味悪くて当然だし。
じゃ具体的に青豆さんや天吾くんのどこが気味が悪いんだよっていわれると
説明しがたい。たたずまいや世界との関わり方が気味が悪いとしか説明できない。
無理矢理言葉にすると、あまりに自己愛的であまりに幼児的だってなるのかなあ・・。
なんかそれも違うような気がするけどもさ・・・。
なんだろうなあ。不思議。文章は嫌いじゃないけど、
その文章で紡ぎ上げられる人物像が好きじゃないんだな。きっと。
(だから村上春樹の翻訳物は好きだ。サリン事件のルポも良かった。)
一方で、それがすごく好きっていう人がいるのも分かる。
すごく嫌いっていうのは、引力があることに違いはないからね。
この読後感の気持ち悪さが、ノルウェイの森の時もしかり、
海辺のカフカの時もしかりだったので、「うむ、変わらない。」と
今回もある意味深く納得はした。
まあ、ある一面、掘り下げると人間なんて気味が悪いものだというのは
すごい真理だと思っているので否定するつもりはさらさらありませんし
ある意味すごいとは心から思っているので、そこだけは誤解なきよう。