11月 25 2010

憤りとロマン「永遠の0 -ゼロ-」

うん、前にも言ったよね…。オイラ、戦争ものって苦手なんだ。

映画よりはまだ、ましかなーとおもうけど、本でも苦手ジャンルなんだ。

でね、これもまた、本屋でノリで買ってみたらわりとガッツリ戦争のお話だったんだ。


永遠の0

ところが、またこれが、ずんずん読んでしまう面白さでございました。


主題は、戦時中の海軍では非常に希有な存在だった(いろんな意味で)

ある男性の戦いの日々を、その孫(現代っ子)が当時の戦友たちを訪ね歩いて

つまびらかにするって言う流れで書かれていて、

それはまあ、非常に崇高な魂に関する話で涙する主題なわけですが、

とりあえずそれはまあいい、おいといて(え)。

(だって、いつの時代も、どこの場所でも、市井にすばらしい人物はいるものだから。

まあ、圧倒的に普通のつまらない人間の方が多いにしても。)


私も日本人のくせにあまりちゃんと戦争の細かい経緯を知らないので、

ここに書かれていること、戦いの経緯とかが正確なのかどうかわからない。

わからないけれど、もうね。まずひとつは、ものすごく腹が立つ。

なにがって、人間を使い捨てにするお上の姿勢が徹底的に書いてあるの。

兵士は、特に下級の兵士は、使い捨て。死んだら補充すればいいと思ってる。

戦争はね、よかないけど、仕方ない。だけどね、戦い方が酷すぎる。

そりゃ、負けるよって思った。むしろ負けろって思った。

人材は国家の一番の財産で、若者は国家の一番の希望であるべきなのに、

資源はケチるくせして、ちっとも人間のことを考えない。そんな国、負けて当たり前だ。

兵士たちが誰のために戦って、誰のために死ぬのかを必死で考えて、苦悩して、

それぞれがそれぞれの答えを見つけて、必死(文字通り必死)で戦う姿の一方で、

上層部のお偉いさんたちも命を顧みず果敢に戦うならともかく

(むろん、そういう方立派な方もいたとは思いますが)これがまた驚きのヘタレっぷり。

成果を上げることより失敗責任を恐れた結果、じり貧になる。


…あれ?なんか最近も某企業とか某政府とかこういうの良く感じるけど?…ま、まあいい。


とにかくそういう当時の軍上層部の姿が描かれていて、それが本当に本当に、腹が立つ。

こちらのブログ様からこの小説にも出てくる零戦が見られるけれど、

たしかに驚くほどの防御力のなさ。操縦席、何じゃそりゃっていうくらい装甲薄い。風防、うすっ。

この本を読んでもう一度上記ブログ様でしげしげと零戦を見て、初めて実感したけれど。

(ちなみに上記のブログ様の他の記事で他国の戦闘機もちらほら見れます)

零戦は非常に戦闘力に優れていたけれど、防御は紙なんですって。うーん…。


と、マジメ(?)に憤る私が片方。もう片方は、戦闘機乗りって特殊なんだなー。という感想。

「スカイ・クロラ」(こちらは架空の世界の架空の戦争のお話)を読んだ時に感じたような、

戦闘機乗り、空中戦の描写にはやはり独特の緊張感とロマンを感じます。

これ、男の人にはたまんないんだろうな。男の子はみんな戦闘機乗りに憧れたんですって。

死亡率、断トツに高いのに。そういうの、よくわかんね。ぺっ。って言えればいいけど、

ちょっとわかる気がしちゃうなあ。広い空で結局瀬戸際で頼れるのは自分だけで、

戦いも自分の技量ひとつで、敵と正面からやり合うって言う感じがいいんでしょうか。

戦後、零戦乗りとアメリカの戦闘機乗り(実際に戦った方々の生き残り)が

顔を合わせる機会があって、そのとき非常にお互いをたたえ合う

いい雰囲気だったと言う話はニュースで聞いたことがあります。

この本にも素晴らしい戦闘機乗りはお互いに認め合う空気があったことが書かれています。

そういうの、そうだろうなあ。ってわかる気がしちゃうんですよね。

なんだろ、アムロとシャア的な…(違)

でもやっぱり、だからって戦うことはやっぱり哀しいことで、

どんな形であれ、戦い合うなんて愚かだと思う女子的思考の自分もいたりして

なかなか感想もすぱっといかない感じ。だから戦争ものはヤなんだ。


わたしの母方のおじいちゃんも戦死しています。私は顔も知らない。

母も覚えていないようです。何軍で、どこでいつ亡くなったのかも知りません。

これまで気にしたこともなかったけれど、これを読むと気になる。

だけどもう、うちの祖父にはどんな戦争があったのか、知ることは出来ません。

そのことに少し、罪の意識を感じました。




11月 22 2010

完成されたバカ殿の形「のぼうの城」

寒い。こないだまで暑い暑い言ってたのに、寒い。

七分袖の出番がない。そして体調を崩す人続出。

書いてて思い出した。こないだ生まれて初めてぎっくり腰になりましたよ。

びっくりした。腰大事ね。


で、くの字で横たわったまま動けないもんだからこれを読んでた。

のぼうの城

本人は立てもしないというのに、合戦ものですよw

なんか日本史としての中央の歴史っていうの?そういうのは一応知っているのだけれど、

この物語の舞台となる埼玉方面とか、例えば私の田舎の諏訪の歴史とかといった

地方の歴史って縁のある人じゃないと知らないよね。

地方では知られている歴史上の人物とかけっこういるんだろうな。


この小説は時代小説なんだろうけど、出てくるキャラクターがなかなか個性的でよい。

三国志みたいにきっちりキャラがある。武丈夫とか、若武者とか、いいわー。姫もいいキャラw

で、主人公が「でくの坊」の略で「のぼう」様とか領民に呼ばれちゃってる領主様。

底が深いのか、別に何も考えてないだけなのか、賢いのかバカなのか、最後までわからない。

完成されたバカ殿のカタチをひとつ見た気がしますw

「この人は私がなんとかしてやらないといかん!」と人に思わせるタイプの人がいて

私も案外そういう人に懐かれると弱いところがあるので、こういう人の動かし方、わかる気がする。


たとえば、同じ城攻めでも「墨攻」(酒見賢一さんの)とはリーダーのタイプがもう全然違うw

面白かったです。

あ、映画化されるんだ。へー。。


11月 9 2010

これも自分と認めざるをえない展

ここ何年かいつも不思議に思うのだが、美術展やデザイン展が混んでおる。


な ぜ に 。


私にしてみりゃ美術やデザインなんてこの上なくオタクくさく、

マイノリティ臭漂う、くらーい趣味だと思っていたのだけれど。

おかげで、美術館に来てみたらぽつーんとひとりきり。みたいな素敵な事がここ何年かまずない。

最後にそれを味わったのはたぶんルーブルかどっかの超マイナー系展示室だと思う。

この傾向、社会的、商業的にはいいことなんだろうけど、

個人的にはすっごく残念。(でたー自己中)


で、ひー会期が終わっちゃうわ!と思ってこないだ焦っていったこれ。

閉館1.5時間前だと言うのに混んでいましたよ。なぜ。(しつこい)

とりあえずカップルが多い。夜の六本木恐ろしい。いちゃいちゃするなこのやろう。

と荒んだ気持ちを抑えつつうろうろ。

これも自分と認めざるをえない展

こういうコンセプトとか視点が、デザイナーの範疇かという事はともかく、

(私的にはデザインの意味は広義にとらえるタイプなのでありとおもう。

生きていく事なんてぶっちゃけ全部デザインよね。)


『自分』てなにか。というのを徹底的に他者の視点や客観的データに還元するやり方は

ちょっとわかりやすすぎるとも思うけれど、

『自己』をとらえる視点の持ち方としては悪くないと思っている。

他者が見る自分の印象をコントロールしたいと思うのが、

自分の見せ方に関わってくるところまでは非常に健全で、

でも結局コントロールし得ない漏れてしまう無意識の何かが、

他者にすくいあげられて『私』ができる。

それはもう、そういうものだからそれでいい。と開き直る事もまた健全だと思うからな。


結局他者が思う私が、私ってこと。接する人の数だけ私もいるってこと。

『他者に見せたい自分』の理想を追うのも大事だし、

理想を追いすぎずに『結果、他者が見た自分』を受け入れるのも大事ってこと。

この展示を見ながら考えてたのはそういうこと。


あともうひとつは、そういう客観的個人データが国家とか社会に管理されることも

色々提起されていたけれど、こっちはもっと難しい問題。

個人情報がどうとかそんなことはこの際どうでもいいとして、

(情報そのものに対した意味はないという意味で)

それによってどうしても生まれる区分、区別は微妙な問題をはらむよね。

区別と差別は永遠の難しい問題。差別を生むから区別をしないという方法論はナンセンスだし。

これが見ながら考えてたもうひとつのこと。


そういや、有名な方のPCのデスクトップが展示されてたりしたけど、

日頃、PCのデスクトップはかなり個性が出る。ていうか物事の考え方が出る。

と思っていたので、「やはり!だよね!」とほくそ笑んだりしていました。

それから、まあ、いうまでもないけど展示が綺麗でした。フォントとか。文字組とか。

佐藤雅彦氏はメジャーなのねー。