これも自分と認めざるをえない展
ここ何年かいつも不思議に思うのだが、美術展やデザイン展が混んでおる。
な ぜ に 。
私にしてみりゃ美術やデザインなんてこの上なくオタクくさく、
マイノリティ臭漂う、くらーい趣味だと思っていたのだけれど。
おかげで、美術館に来てみたらぽつーんとひとりきり。みたいな素敵な事がここ何年かまずない。
最後にそれを味わったのはたぶんルーブルかどっかの超マイナー系展示室だと思う。
この傾向、社会的、商業的にはいいことなんだろうけど、
個人的にはすっごく残念。(でたー自己中)
で、ひー会期が終わっちゃうわ!と思ってこないだ焦っていったこれ。
閉館1.5時間前だと言うのに混んでいましたよ。なぜ。(しつこい)
とりあえずカップルが多い。夜の六本木恐ろしい。いちゃいちゃするなこのやろう。
と荒んだ気持ちを抑えつつうろうろ。
こういうコンセプトとか視点が、デザイナーの範疇かという事はともかく、
(私的にはデザインの意味は広義にとらえるタイプなのでありとおもう。
生きていく事なんてぶっちゃけ全部デザインよね。)
『自分』てなにか。というのを徹底的に他者の視点や客観的データに還元するやり方は
ちょっとわかりやすすぎるとも思うけれど、
『自己』をとらえる視点の持ち方としては悪くないと思っている。
他者が見る自分の印象をコントロールしたいと思うのが、
自分の見せ方に関わってくるところまでは非常に健全で、
でも結局コントロールし得ない漏れてしまう無意識の何かが、
他者にすくいあげられて『私』ができる。
それはもう、そういうものだからそれでいい。と開き直る事もまた健全だと思うからな。
結局他者が思う私が、私ってこと。接する人の数だけ私もいるってこと。
『他者に見せたい自分』の理想を追うのも大事だし、
理想を追いすぎずに『結果、他者が見た自分』を受け入れるのも大事ってこと。
この展示を見ながら考えてたのはそういうこと。
あともうひとつは、そういう客観的個人データが国家とか社会に管理されることも
色々提起されていたけれど、こっちはもっと難しい問題。
個人情報がどうとかそんなことはこの際どうでもいいとして、
(情報そのものに対した意味はないという意味で)
それによってどうしても生まれる区分、区別は微妙な問題をはらむよね。
区別と差別は永遠の難しい問題。差別を生むから区別をしないという方法論はナンセンスだし。
これが見ながら考えてたもうひとつのこと。
そういや、有名な方のPCのデスクトップが展示されてたりしたけど、
日頃、PCのデスクトップはかなり個性が出る。ていうか物事の考え方が出る。
と思っていたので、「やはり!だよね!」とほくそ笑んだりしていました。
それから、まあ、いうまでもないけど展示が綺麗でした。フォントとか。文字組とか。
佐藤雅彦氏はメジャーなのねー。
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