愛ってなによ。「悼む人」
あ つ い 。
思わずとろけた体勢のまま日々を過ごしている今、私の友はスカパーのチャンネルたち。
今一番かわいいのはメンタリストのリグスビー。あんな部下欲しい。
いきなり分かる人にしか分からない話題ですが、とはいえ、今年の夏は見たい映画もそこそこ。
Super8でしょー、マイティソーでしょー、ハリポタでしょー。
ハリポタとか終わりますね。寂しい。本が終わったときも寂しかったけど、
映画も終わっちゃって、キャストの子たちも大人になっちゃって、寂しい。
ワールド・エンドですよ。ハリポタ・ワールド・エンド。
世界的に興行をあげられるシリーズの後釜はなにになるんでしょうかね。
とかつらつらと書き連ねればキリはないですが、今日のレビューはこれ。
天童荒太さんといえば「永遠の仔」ですが、この方の小説は
なんと言うかちょっと宗教性を感じさせるところがあるような気がする。
特定の何らかの教えとかではないけれど、まあ、家族とか死とかそういうのを扱うからね。
しかしそういう題材を扱ったところで全く宗教性を感じさせない方もいるわけで、
そういう意味では好みが分かれるんではないかと思う。
わたしも、実はそんなに好みでは、ない。
いや、「永遠の仔」とか傑作と思いますけど。
で、わたしがどうして宗教的な愛の話をうさんくさく(うさんくさく?)思うかということが
この小説が割と肉薄していたので、これはちょっとおもしろかった。
その矛盾に、そうだよね、苦しむよね、普通ね。って思って。
天童さんもそういうの考えて書いたんだろうなあと思って、
それを考えることでこういう小説になったことはともかく、面白いなあと思ったのですよ。
んーと、要するに、「特定の誰かを深く愛すること」っていうのはのみならず、
「その他大勢の人間と、特定の愛する人を区別する」っていうことじゃんか。
家族愛だってそうだよね。家族、と他人、は区別する。
でね、人間愛っていうのは、「すべての人を平等に愛する」ってことでしょ。
ところがそれって、裏返せば「誰も特別ではない」=「誰も愛さない」ってことでもある。
すべての人に愛を与えるというのが、可能かどうかはともかく、
そうでありたいと願うことは、特定のつながりを否定することにもつながる。
宗教は「隣人を愛せ」とか「執着(愛もその一種として)を捨てろ」とかいろいろいいますが、
この辺の矛盾は、人間は捨てきれないんじゃないのかなあ。
がっつりと納得のいくこたえを返してくれた教典はいまのところありません。
(余談ですが太宰治の「 駈込み訴え」はこの辺りをついた秀逸な読み物ですな。
青空文庫にあります。青空文庫最高!)
でね、「愛」ってなによ。ということになるのですよ。
「愛」は「善」か「悪」かも曖昧になるわけですよ。
この小説読んでるあいだ、その辺りのことを割と終止考えてました。
とはいえ、お話としてすらっと読めてしまうところはさすがでありますが。
まあ、面白さは「永遠の仔」のほうが遥かに上。
悼む人