1月 24 2011

小谷元彦展「幽体の知覚」

年が明けてからというもの、ちまちまと忙しくしているのですが、

(ありがたや〜)ぼんやりしてたらまた会期が終わりそうなので

急いでいってきました。これ。

幽体の知覚

恥ずかしながら、小谷元彦氏の作品を見たのは初めてなのですが、

良かったです。…私のアートの好みって偏ってはっきりしているから

そのせいでまあわかりやすいと言えばわかりやすいのだけれど、考えてみれば

同時代の作家のつくるものがわかりやすいのは当たり前なのかもしれない。

鴻池朋子氏の展示もわかりやすくて良かったしなー。

ちなみに私は「脳科学」に興味を持つくらいの変態なので

基本的に身体性を感じさせるものが好きなのよね。社会性より身体性。

これは良い悪いじゃなく、単純な好みだけど。


「痛覚」「アウラ」「重力」あたりがキーワードっぽかったけど、

「幽体の知覚」っていう展示会の名前もいいセンス。


ピアニストが指を拡げるための実際の器具をアレンジしたバイオリンモチーフの器具

(作品名失念)なぞをよだれを垂らしそうな顔で見つめる私。

どんだけ身体変形欲求好きなんだと。


印象としては、グロテスクなものも多いのかもしれないけれど、

私はこういうのに全然戦慄しない、むしろ漲ってくる変態(二回目)なので無問題。

むしろちょっとど真ん中過ぎるというか、そつがなさすぎる感じもしたなあ。

なんていうの、変態の表現がど真ん中っていうの?(台無しなレビューになってきた)

なんかおしゃれなんだよね。泥臭くない。

とくに「SP2」シリーズ、「ホロウ」シリーズなんかは

わかりやすく美しかったです。白いし(そこ?)。


そういえばずっと思い悩んでいた森美術館の年間パス買ってみました。

5,250円。…まあそんなに悩むほどの値段じゃないわけだがw

年間4回通うともとが取れる計算。普通にそのくらい通ってる気がするので。

とか思っていたら次の狙っている展覧会が国立新美術館だという。…ちw。


11月 9 2010

これも自分と認めざるをえない展

ここ何年かいつも不思議に思うのだが、美術展やデザイン展が混んでおる。


な ぜ に 。


私にしてみりゃ美術やデザインなんてこの上なくオタクくさく、

マイノリティ臭漂う、くらーい趣味だと思っていたのだけれど。

おかげで、美術館に来てみたらぽつーんとひとりきり。みたいな素敵な事がここ何年かまずない。

最後にそれを味わったのはたぶんルーブルかどっかの超マイナー系展示室だと思う。

この傾向、社会的、商業的にはいいことなんだろうけど、

個人的にはすっごく残念。(でたー自己中)


で、ひー会期が終わっちゃうわ!と思ってこないだ焦っていったこれ。

閉館1.5時間前だと言うのに混んでいましたよ。なぜ。(しつこい)

とりあえずカップルが多い。夜の六本木恐ろしい。いちゃいちゃするなこのやろう。

と荒んだ気持ちを抑えつつうろうろ。

これも自分と認めざるをえない展

こういうコンセプトとか視点が、デザイナーの範疇かという事はともかく、

(私的にはデザインの意味は広義にとらえるタイプなのでありとおもう。

生きていく事なんてぶっちゃけ全部デザインよね。)


『自分』てなにか。というのを徹底的に他者の視点や客観的データに還元するやり方は

ちょっとわかりやすすぎるとも思うけれど、

『自己』をとらえる視点の持ち方としては悪くないと思っている。

他者が見る自分の印象をコントロールしたいと思うのが、

自分の見せ方に関わってくるところまでは非常に健全で、

でも結局コントロールし得ない漏れてしまう無意識の何かが、

他者にすくいあげられて『私』ができる。

それはもう、そういうものだからそれでいい。と開き直る事もまた健全だと思うからな。


結局他者が思う私が、私ってこと。接する人の数だけ私もいるってこと。

『他者に見せたい自分』の理想を追うのも大事だし、

理想を追いすぎずに『結果、他者が見た自分』を受け入れるのも大事ってこと。

この展示を見ながら考えてたのはそういうこと。


あともうひとつは、そういう客観的個人データが国家とか社会に管理されることも

色々提起されていたけれど、こっちはもっと難しい問題。

個人情報がどうとかそんなことはこの際どうでもいいとして、

(情報そのものに対した意味はないという意味で)

それによってどうしても生まれる区分、区別は微妙な問題をはらむよね。

区別と差別は永遠の難しい問題。差別を生むから区別をしないという方法論はナンセンスだし。

これが見ながら考えてたもうひとつのこと。


そういや、有名な方のPCのデスクトップが展示されてたりしたけど、

日頃、PCのデスクトップはかなり個性が出る。ていうか物事の考え方が出る。

と思っていたので、「やはり!だよね!」とほくそ笑んだりしていました。

それから、まあ、いうまでもないけど展示が綺麗でした。フォントとか。文字組とか。

佐藤雅彦氏はメジャーなのねー。


7月 29 2010

脳は美をいかに感じるか

うわー、気づかないうちに7月が終わりそうとか、何!?

何事!?何がおこってるの!?タイムワープ(違)?


…ええ、忙しさにかまけて更新もしておりません。ごめんなさい。

最近は仕事→就寝→仕事→就寝のループだったので、

あまり何も読んでもいなけりゃ見てもいませんよ!

というわけで、今日は脳科学+美術の奇跡のコラボレーション(?)

痺れるマイバイブルをご紹介。

脳は美をいかに感じるか

この前書いたポール・エクマン博士といい、このセミール・ゼキ博士といい、

実際の何事かの事象を自分の持っている科学的知識のアプローチで

読み取ろうとするおかしな(?)人たちっておもしろいですよねえ。

科学はとかく机上の空論になりがちだけれど、(特に私のような一般ピーポーには)

少しでも現実の事象に照らして考えてみるというアプローチは面白いなあといつも思う。

科学はそうあらねばならないよなあと、いつも思う。


とはいえですよ、この本を読むと、美のもたらす感動体験そのものの原理が

解明できてるかというととてもそこまでは、やっぱりとても無理。

感動という情緒活動自体がまだ良く分かってないんだからそりゃそうだけど。


——- 本書では主に「美術作品の知覚」について扱うが、

筆者はかねてから美術のもっとも慈しまれ、喜ばれている側面、

すなわち美的魅力、感動を呼び起こす力、心をかき乱し、刺激する力について

何か一言でも言うことができたらと思い続けてきた。

現在はまだとてもそのような状況にはないが、いずれそうなるものと強く期待している。——-

(P196)



と書かれているように、美術、すなわち視覚刺激がもたらす感情を解明する

ホントの最初の一歩しか脳科学自体はいけてないわけだけれど、これがねえ、面白かった。

具体的には一番最初の視覚情報を受け取る大脳視覚野の話がほとんどだけれど、

この辺の原理が分かるだけで、「あ、だから、この色の組合せは綺麗と思うわけね」とか

「あの意味不明のピカソとかカンディンスキーの絵はどこがすごいのか」とか

わかる。これはすごい事じゃないかと思う。

要するに、その原理がこうなっているという事ではなくて、

それを美術の世界に持ち込んでみたゼキ博士のアプローチが、目新しい。


「感動」にまつわるものってなにか、科学的なアプローチを拒むような

なんだろ、「考えるな!感じろ!」的な神秘的なタブー性みたいなものがあると思うんだけど、

(多分これって論理的に完全解明されると洗脳的な意味でも色々危険だからだと思うので、

そのへんの自己防衛本能が働いている気がしないこともない。)

脳科学は人間そのものを解明するために日々進歩している訳で、

人間活動の中でも特殊なもの=「感動」を目的とする活動を解明するには

絶好のアプローチかもしれないなとは思っております。是非はともかく。


わたしは大学で美術論をやってたけど、そのころから変だな変だな思っている。

なんで、美術なんてあるんだろう。音楽や、文学も、なんであるんだろう。

なんで、優れた美を、人間はそういうものの中に見るんだろう。

生きていくための直接的な活動でもなく、種の持続のための活動でもない

こういう特殊活動が、不思議でしかたない。

すごく魅力的で決してなくならないのに、でも生物学的には不必要。

その存在の理由そのものを知りたいという私みたいな人には

なんかインスピレーションを与えてくれる本かもしれません。